義経・成吉思汗説

高木彬光ー成吉思汗の秘密より。

■著作前話■

この作品が生まれるのに、ちょっと不思議なできごとがありました。これが、成吉思汗余話にのっているので、紹介します。ある日、黄小蛾女史が、しきりに筮竹を割り、算木を返し、口を酸っぱくして高木にすすめた。「先生、悪いことは申しませんから、今度はぜひお墓参りにいってらっしゃい。必ず大変な作品のきっかけがつかめます」といわれ、青森に墓参に出向いた時、平泉で何千羽という白鳥が海をわたり、一望千里の広野の上を飛んでいく光景で、いつの間にか、自分もその一羽となって飛んでいる光景を夢に見た。眼がさめたときに子供のころから聞いていた椿山伝説をおもいだし、おやと思った。青森では義弟より、開口一番「どうです。今度はひとつ義経を書かんですか。衣川の後の義経ー資料はいくらでも集めてきますよ」といいだした。東京に帰り、資料調べにかかり、その時貴重な発見があった。元朝開国史は、元朝末期の史官の眼にはふれていないのである!


■義経衣川死亡についての疑問■

「奥州ー鎌倉間四三日の謎」

義経の首は首実検のため、奥州から鎌倉まで送られたが、約130里を43日かけている。衣川の合戦は6月中旬、鎌倉についたのは8月初め、物の腐敗が一番早い時期のため、首が原型をとどめていたか疑問である。首は影武者、杉目小太郎行信ではなかったかという疑問。


■義経北走の道ゆかりの史跡■

「宮古」

判官館、法冠神社、判官宿、弁慶腰掛岩、判官稲荷、黒森山(九郎森山が後世になって変化したのではないか)

「破石」

義経の股肱の臣といわれた鈴木三郎重家の墓がある。その子孫に代々伝わる口伝によると、弟の亀井六郎重清と共に、義経を守って衣川から宮古におちのびたものの
自分は年をとって蝦夷地までおともはかなわないとして、弟だけにともをさせ、自分は宮古にとどまり、そのまま死んだとのことである。

「八戸」

長者山(義経が館をかまえてしばらく暮らした)
新羅神社(義経とその先祖、新羅三郎をあわせて祭った社)
小田八幡(義経主従が書き写して奉納したといわれる大般若経が150巻残っている)
藤ヶ森(夫人ヶ森、義経の奥方の墓がある)

「三厩」

義経がここに愛馬3頭を残しておいたという故事から出ている。
鞍馬山義経寺(義経が自身で建立したといわれる)

「北海道ー福山」

義経山欣求院

「ニコリスク」

ニコール人の芝居で巻狩りの場面に役者が笹竜胆の紋をつけ、日本流の鎧、兜であらわれるが、昔からの伝承で、いつごろから伝わったものかわからない。

「ザバイカリエ地方の首都チタ」

博物館に日本の昔の武器と思われるようなものが陳列してあった。

「成吉思汗の笹竜胆」

大英博物館に残っている成吉思汗の彫像には、笹竜胆と思われる模様がついている。





■成吉思汗即位の白旗■

岩波文庫「蒙古史」より成吉思汗即位のときにおこなわれた儀式「興安嶺上に麾下に従う各種族の首長等を呼び集め、総会議を招集し、九りゅうの白旗を嶺の上にひるがえした。」
 白旗は源氏の旗印、九りゅうは九郎判官の名前をあらわすものではないか。

■義経忌の謎■

八月十五日を成吉思汗の忌日として、オボー祭という祭りを催し、その霊をなぐさめている。鞍馬山でも、八月十五日に義経忌という法要がおこなわれている。代々の管長が秘密に行っていたものらしいが、最近公開するようになった。

■北京の宮殿(清)に和の字がついているものが多い■

太和殿、保和殿、中和殿、擁和宮、協和門・・・。清朝時代には日本人のことを、和人といっていた。清朝の君主がその宮殿の名前にこの1字を選んだことは単なる偶然か。さらに第一回中国革命で、中華民国が生まれたとき、第一代大総統になった、袁世凱はまず、こういう宮殿の名前を書き換えた。袁世凱はなぜ、執拗にこの和の字にこだわったのか。

■大日本人名辞書の謎■

義経蝦夷に逃れ、支那に渡り、清帝の始祖となる。このことにつき、ある古老の談に曰く、徳川氏の初めにあたり、鄭成功が支那の南方に拠り、大いに清廷を悩ましたるおり、鄭氏の母は日本人なれば、その縁により、日本政府の鄭氏を助けんも測り難しと、清廷の有司は懼れを懐き、為に1介使を送りて、わが皇の祖先は貴国の人にて、わが皇は実にこの後裔なれば、爾後は隣交を結び、名は両国の帝なれど、誼は兄弟のごとくなるべしと、文書礼物を供えて、幕府に贈り、かつ、これは我が祖先の着用せしものにて、伝家の重宝なり。しかれども、いま前言を証するため、これを贈ると、古き日本おどしの鎧の草摺一片を添え越したるよし。その草摺ならびに文書は、久しく幕府の庫中に秘めおきしが、明治中、徳川家より宮内庁へ献納せりと聞く。果たして然からば奇談というべし。

■「図書輯勘禄」における清朝、六代皇帝、乾隆帝自身の序文■

代々の清朝の皇帝たちの命をうけ編まれた歴史の書物「図書輯勘禄」に序文が記されている内容は、
「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。ゆえに国を清と号す」

■成吉思汗の名前の秘密■

汗の字をさんずいと干に分け、さらに漢語として読みくだすと、吉成りて、水干を思うー吉野山の誓成りて静を思うー鎌倉八幡宮の静御前の歌に対する返歌となる。

成吉思汗を万葉仮名として読み下せば、なすよしもがなー昔を今になすよしもがなと読める。




いかがですか。詳しくは高木彬光著/成吉思汗の秘密/光文社文庫をご覧下さい。


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